骨董の日
- カテゴリ:勉強
- 2023/09/25 00:19:05
こんばんは!25日(月)は、九州から中国、四国では雲が広がりやすく、
雨の降る所があるでしょう。
その他の地域は、概ね晴れる見込みです。
ただ、北日本では次第に蜘蛛の広がる所があるでしょう。
又、南西諸島は所々でにわか雨がありそうです。
【祖母・祖父との思い出】
A、祖母とはお庭で植物を一緒に眺めました,祖父とは一緒に温泉に浸かりました
【骨董の日】 こっとうのひ antique Day
☆9月25日は「骨董の日」です。
江戸時代の文化12年(1815年)のこの日、
江戸時代の戯作者であります山東京伝さんが「骨董集巻之三」を
刊行しましたことを由来に、
京都で骨董や美術品のオークションを手掛ける株式会社古裂會さんが
制定しました。
<概要>
〇戯作者(げさくしゃ)
享保時代(1716年~1736年)以降に輿った談義本や洒落本や
読本、黄表紙、さらに寛正時代(1789年~1801年)を過ぎて、
滑稽本、人情本、合巻(ごうかん)等を派生して盛行しますその全てを指します。
又、その作者を戯作者と称します。
以上の戯作はその作者層や作品の質等を勘案しますと、
寛政期を境としまして、前後の2期に分けて考えますのが
実状に即した見方です。
〇山東京伝(さんとうきょうでん)さん
江戸時代後期を生きました浮世絵師、戯作者です。
@誕生時期
1761年9月13日
@死亡時期
1816年10月27日
山東京伝さんは江戸の深川木場の質屋でありました岩瀬伝左衛門さんの
長男として生まれます。
@本名
岩瀬醒(いわせせむる)さんで、
俗称は京屋伝蔵(きょうやでんぞう)さんです。
★筆名(ひつめい)
江戸城紅葉山の東に住む京屋の伝蔵ということから
名付けたといわれています。
〇山東京伝さんと北尾政演さん
山東京伝さんは、若くして北尾重政(きたおしげまさ)さんから
浮世絵を学びまして、自らを北尾政演(きたおまさのぶ)と名乗りました。
そして、多くの戯作や狂言本等に挿絵を描きます。
1780年18歳にして黄表紙を刊行して、画家デビューを果たします。
@作品
・娘敵討故郷錦(むすめかたきうちこきょうのにしき)
・米饅頭始(よねまんじゅうのはじまり)
@黄表紙
洒落と社会への批判を嘲(あざ)笑う内容の大人向きの絵物語です。
〇山東京伝さんと黄表紙
20歳になりました山東京伝さんは・・・
御存知商売物(ごぞんじしょうばいもの)で評判を得ます。
この年以降・・・
筆名を山東京伝に改めます。
〇山東京伝さんと華やかな友好関係
それ以降の山東京伝さんは多くの黄表紙を描きつつ、
華やかな交友関係を深めます。
@太田南畝(おおたなんぽ)さん
「恐れ入谷の鬼子母神」という有名なフレーズは、
太田南畝さんの狂歌です。
「恐れ入谷の鬼子母神、どうで有馬の水天宮、志やれのうちのお祖師様」
この有名な洒落は太田南畝さんの作品です。
蜀山人(しょくさんじん)という名前でも知られています。
☆狂家三大家
・唐衣橘州(からころもきっしゅう)さん
・朱楽菅江(あけらかんこう)さん
こちらのお二人と共に狂家三大家といわれています。
生まれは貧しい下級武士の家でしたが、
幼い頃から文学に親しみ、国学や漢学、漢詩、狂詩等を学びました。
17歳のころに幕臣となりますが学問を続けまして、
19歳の時には狂詩集を刊行して評判を集めます。
南畝さんの作品は、
国学や漢学等の知識を背景にした作風だったことが、
当時の知識人達には好評だったようです。
20歳頃からの南畝さんは四方赤由(よものあから)という号で
活動を始めます。
これは「夜もすがら」のもじりだそうです。
★同じ時代に活動をした人
・宿屋飯盛(やどやのめしもり)さん
・頭光(つむりのひかる)さん
このような狂名で活動をしていた人もおりました。
30代になりました頃「万載狂歌集」という歌集を編集します。
これは有名な「千載和歌集」のパロディです。
232人もの狂歌師の748首を収めた狂歌集で、
後世も千載和歌集を模しています。
この「万載狂歌集」がきっかけとなり、
それまで関西で発達していた狂歌が江戸で社会現象化しました。
@恋川春町(こいかわはるまち)さん 1744年ー1789年8月27日
江戸時代中期の戯作者で浮世絵師です。
本名は倉橋格(くらはしいたる)さんです。
河国児島藩士となり藩主松平昌信公に仕え、
右筆見習、小納戸格、刀番等を務めました。
昌信公から信義公に藩主が変わるとさらに出世をし、
藩政の中枢の参与をするまでになりました。
その一方、浮世絵を烏山石燕さんに学び、
1775年(安永4年)自作自画の「金々先生栄花夢」を刊行。
それまでにない当世風俗を描いた知的で諧謔(かいぎゃく)のきいた
大人向けの読みものとして人気を博し、
「黄表紙」という新ジャンルの祖といわれるまでになりました。
@森島中良(もりしまちゅうりょう)さん 1756年?-1810年
江戸時代の医者、戯作者、蘭学者、狂歌師です。
奥外科医桂川家3代目桂川甫三さんの次男で桂川甫周さんの弟にあたりますが、
寛政頃まで家祖桂川甫筑さんの元性である森島(森嶋)を名乗りました。
幼名は友吉さんで、字は虞臣(やすとみ)さん、通称は次郎・万蔵さんです。
号は中良さん、後に甫斎さん、甫粲(山)さん。
狂名は竹杖為軽(すがる)さん。森羅万象(まんぞう)さん、
築地善交さん等、多数の変名を持っています。
@五代目 市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)さん 1741年ー1806年
江戸中期の歌舞伎役者で、4代目團十郎さんの実子です。
俳名は三升さん、白猿さん等です。
狂歌名は反古庵さん、花道のつらねさんです。
松本幸蔵さん、3代目松本幸四郎さんを経て、
明和7年(1770年)團十郎を襲名し、
後に市川鰕蔵(いちかわえびぞう)さんと改めました。
最盛期の江戸歌舞伎界最高の人気役者でした。
隠居名成田屋七左衛門さん、俳諧や狂歌を通じて大田蜀山人さん、
鹿津部真顔さん、山東京伝さん、烏亭焉馬さんらとの文人と親交があり、
熱烈な支援を得ました。
焉馬さんは5代目を中心に「江戸客気団十郎贔屓」「追善数珠親玉」等、
歴代團十郎さんに関する多数の著作を刊行しました。
そして山東京伝さんは、
1785年に書きました「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」が
大ヒットします。
1787年にはその続編である「通言総籬(つうげんそうまがき)」は、
洒落本の最高傑作と称されています。
問題 山東京伝さんは黄表紙本に描いた挿絵がお咎めを受け罰金処分となります。
1791年深川の遊女の物語で「仕懸文庫(しかけぶんこ)という
洒落本を出し、大人気を博します。
しかし、同年に江戸幕府が行いました寛政の改革において、
風俗を乱す本を取り締まる出版物取締令に触れ「手鎖の刑」に処されます。
手鎖(てぐさり)の刑とはどのような刑かを教えてください。
1、手錠を付けたまま50年間生活
2、手と手を付けたまま30年間生活
3、手錠を付けて20年背中に付ける
ヒント・・・〇手鎖の刑
Oに組んだ両手に瓢箪型の鉄製手錠をかけ、
一定期間自宅で謹慎させる。
お分かりの方は数字もしくは手鎖の刑とはどのような刑かを
よろしくお願いします。