税関記念日
- カテゴリ:占い
- 2023/11/28 17:12:51
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【税関記念日】 ぜいかんきねんび Customs Anniversary
☆1872年(明治5年)のこの日、
長崎、神奈川、箱館(函館)に設けられていた「運上所」の呼称が、
「税関」に改められました。
これによりまして「税関」が正式に発足しました。
運用所では、税金の徴収と輸出物貨物の監督を行っていました。
<概要>
〇歴史
鎖国政策を続けました江戸時代には、
長崎の出島が日本と外国を結ぶ唯一の港でした。
そして・・・
幕末の嘉永7年(1854年)に結ばれました日米和親条約を皮切りに、
我が国は諸外国に対しまして、次々と港を開きました。
[日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)]
Japan‐US Treaty of Peace and Amity
黒船が来航した当時(1853年)、
日本は長崎の出島を除きまして、
外国人の入獄や外国船の入港を一切、禁じています。
しかし・・・
既に18世紀の終わり頃から・・・
・ロシア
・イギリス
・オランダ
これらの国々が日本に開国を打診するようになっていました。
その中で頑(かたく)なに鎖国体制を貫こうとする日本の扉を開きましたのは、
「アメリカ」です。
その時に、両国間で締結したのが「日米和親条約」です。
〔日本開国のきっかけとなりました条約〕
1853年(嘉永6年)6月にアメリカの東インド艦隊司令官の
ペリーさんが、4隻の軍艦を率いまして浦賀に来航します。
≪東インド艦隊≫ East India Squadoron
19世紀に存在しましたアメリカ海軍の艦隊です。
1835年に設立されまして、
1868年にアジア艦隊(Asiatic Squadron)へと名称変更されます。
尚、言語は「フリート(frert)ではなく、
「スコードロン(Sqquadron)でありまして、
「東インド艦隊」と訳される場合もありますが、
1902年までアメリカにフリートは存在せず、
それまではスコードロンが最大の戦闘燗グループでありました。
一般的に戦隊は艦隊の下部組織として編成される為、
訳語として艦隊が使用されました。
フィルモア大統領は日本の開国を目指しまして、
日本の開国を目指します。
この任務には、東インド艦隊司令官のジョン・オーリックさんです。
《ミラード・フィルモア》さん
Millard Fillmore
1800年1月7日ー1874年3月8日
アメリカ合衆国の政治家、弁護士です。
第12代副大統領および第13代大統領です。
大統領の死に際しまして、副大統領から昇格した2人目の大統領です。
サガリー・テイラーさんがこれらで死去した後の大統領職を継ぎました。
フィルモアさんは米墨戦争の間に丙後された領土に、
奴隷制度を導入しないという提案に反対しまして、
1850年協定を支持しまして、同協定に署名しました。
その中に逃亡奴隷法(ブラッドハウンド法)も含まれました。
インディアンに対しては徹底排除の方針を採りまして、
1851年には「第一次ララミー砦条約」を締結させまして、
ミズーリ川以西の多数のインディアン部族からその領土を奪いました。
外交政策におきましては日本との貿易を進めまして、
ハワイを統合しようとするナポレオン3世と衝突します。
フランスやイギリスと共にキューバに侵入しようとしました
ナルシソ・ロペスさんの動きに対抗しました。
大統領職後はノーナッシング・ムーブメントに加わりまして、
南北戦争の間にはリンカーン大統領に反対しまして、
テコンストラクションの期間にはジョンソン大統領を支持しました。
1851年6月8日に蒸気フリゲートサスケハナは、
東インド艦隊の旗艦となるべく極東に向かって出発しました。
しかしながら、翌年広東に滞在中にオーリック代将は病気となりまして、
代わりにマシュー・ペリー代将がミシシッピ号で極東に向かいます。
そして、上海到着後、サスケハナを旗艦としました。
ペリーさんは1853年に東インド艦隊の4隻の艦隊を率います。
そして、日本を訪問します。
翌年1854年には合計9隻の艦隊を用いて、
いわゆる砲艦外交を展開しまして、日本の開港に成功しました。
ペリーさんは日本の江戸幕府に開国を要求する大統領親書を
持参していました。
しかし、江戸幕府は回答を保留しまして、
一旦ペリーさん一行を退去させます。
1854年(嘉永7年)1月、
開国を迫られた江戸幕府は、ついに受け入れざるを得なくなります。
1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、
江戸幕府は日米和親条約に調印しました。
続いて・・・
・イギリス
・ロシア
・オランダ
これらの国々とも同様の条約を結びましたことで、
約200年続きました鎖国は終焉を迎えます。
〔日米和親条約締結をアメリカが求めた理由〕
≪捕鯨の補給用拠点として≫
アメリカが日本に開国を迫りました理由の一つには、
捕鯨の補給用拠点として利用したかったことが挙げられます。
黒船来航当時は鯨から採れる鯨油(げいゆ)を燃料に、
機械油として使用していました。
その他、太平洋西部はクジラの良い漁場でしたが、
アメリカからは距離があります。
その為、長期間の漁には捕鯨船が燃料や食料を調達する拠点が必要です。
位置的に日本が適しているからと考えたのです。
≪アジアに進出する足掛かりとして≫
アメリカは、貿易目的に清国への進路を目論んでいましたが、
アジアに植民地を持っていませんでした。
その為、アジア各地に植民地を持つヨーロッパ諸国に
遅れをとっていました。
問題 当時のアメリカはアジアに到るのには、
アフリカのある岬を周るルートが一般的でした。
ある岬名を教えてください。
1、ベルデ岬(セネガル・ダカール州)
2、喜望峰「(きぼうほう)南アフリカ共和国・西ケープ州」
3、グアルダフィ岬(ソマリア)
ヒント・・・〇正解の岬 スエズ運河で注目「正解の岬」の恐ろしさ
*日本経済新聞 2021年4月21日より抜粋
スエズ運河で座礁しましたコンテナ船は、
2021年3月29日にようやく離礁(りしょう)に
成功しました。
しかし・・・
立ち往生していた船の多くはさらなる遅延を避ける為、
代替手段を選択しました。
1488年ポルトガルの航海者、
バルトロメウ・ディアスさんが正解の岬(嵐の岬)を周り、
インドへ到達する航路を、当時の国王ジョアン2世に報告しました。
お分かりの方は数字もしくは当時、アメリカはアジアに到る場合、
アフリカのある岬を周りますが、その岬名をよろしくお願いいたします。