借金してでも遊ぶという生き方
- カテゴリ:日記
- 2024/04/29 10:50:49
昔の人は若い人に「借金してでも遊べ」って言ってたという。何いっちゃってんの?って若い時思ってた。人をなんだと思ってるのだ?とか。私みたいな変な人は、そういうのを理解してませんでした。それは嘘だおかしいとか思ってました。
人生は短いかもしれない
でもなんだか中年に差し掛かって、確かにそうかもな~とか思ってきた。人生何があるかわからない。短いかもしれない。生きてて、お金が無いという状況よりは、「こうしたいんだ!」という強い欲求、遊びたいと思う心、何かを真剣に愛しているという心が、何より大切といえばそうかもしれないと思うようになった。
何も愛してない冷たいひと
そもそも、何かに熱中したり面白いと思ったりこれが欲しいと何かを欲するという事は、とりもなおさず「強く心が惹かれる」人だと思う。いいかえれば、何かを強く愛しているという言い方も。そういうならば、じゃあ、裏を返せば、借金もせずに難なく無難に無駄遣いなんてしません。何もしません、っていう人って、何も愛してないって事なんかな~…っていう言い方もできるかもしれない。心、ないのかな?みたいな。人間として冷たいというか。しょうがない遊びというのをしている人というのは、しょうがないかもしれないけれど、しょうがなければないほど、そこには人として大切なこよなく何かを愛するという人間の証明みたいな人柄の良さがあるような気がします。
借金は、返せる人だから借りれるお金
借金というのは、お金を返せる信用がある人に貸してもらえるもの。そもそも信用がなければ、借金のしようもない。返済能力がある人は、お金を借りれるわけだから、何か大切なことに気づいたならば、借金してでも遊ぶというのは、本当かもしれない。人生に何も心動かされない場面しかない、強く心を惹かれた事なんて無い。っていう人生って間違いはしませんでした、っていう事だと自信もって言えるかもしれないけど、それってつまり何も大切だと思えなかったのか?という考え方も。人間ってどうしようもない非合理的な事柄に対して唯一、心や情けや魂が考えて非効率な事をする生物だと思うんで。そうじゃなかったら、機械みたいな心無い人間か動物みたいな非知的動物じゃないかと思うので。
着飾り、遊ぶことが、社会的な信用
世の中には、遊べない人というのもいる。借金で首が回らない人の事ですけども、そういう人は遊べない。当然ながら、首がまわらない人間からは、人は離れていきます。どれだけ人柄交渉術あっても、首がまわらない人間を人間は嫌います。当然ですけど。だから少しも遊べてない人、無駄なおしゃれをしてない人をみると、人は本能的な嫌悪感に近い生存の本能的な脊髄反射に近い、嫌悪感、嫌われる気配を察知するんじゃないだろうか。何にしろ、社会で生きていくうえで、少しも遊び無い、余裕がない、遊びというのは何も本当にレクリエーションの事じゃなく、カラフルな色男みたいなシャツや艶やかなドレスを装うような遊びも含め、遊びが無いというのは、そういう人間性は、真面目一辺倒な人柄というのは、信用を集めるかのようで、何の信念も愛好も、最終的にはお金も無いのかというのが、人間の実は正直な感想なんじゃないのかな。真面目な恰好をバカにされてしまうというより、心かお金に余裕と愛が無い気配が、遊ばない人に対する正直な哀れみとさげすみと、嫌悪感みたいなものがある気がする。
首が回らないから遊ばない人は、最終的に遊ぶ
首が回らなくて遊べない人というのも世の中いるんですよ。そういう人は、一生借金地獄にいるのかと普通の人は思うと思います。でもこれが人間の世界の面白いところ。本当に首が回らなくなったら、人間って遊びの職業に入ったりするんですよねぇ~。だから結局、お金無い人だって遊ぶんですから、お金ある人が遊んだって文句言われるいわれは一つも無い。むしろ遊んだほうが、全人類の為になる。遊ばない理由というのを用意している人間のほうが悪である。という考え方も一理ある。人はなにしろ、心という不思議な気持ち精神と肉体を備えた不思議な生き物。自分という人間の精神や魂や心が求める人生の生きる意味といえる楽しさを追わないで、生きてる意味あるのか。借金地獄にいる人だって遊んでるんだから、遊ばない理由なんて、ないし、借金してでも遊んでる人は、生きて生まれて一番賢い生き方をしてるかもしれない、と、十代から奨学金借りたりしてる借金地獄寄りの地獄にいた私が思う事です。遊べと。遊びなさいと、そう思いますよ。遊びたいという人は。