Nicotto Town



ふみの日

ニコットおみくじ(2024-05-23の運勢)

おみくじ

こんにちは!九州から東海は雨や曇り。

関東から東北は晴れる。
北海道は曇り。
沖縄は雨のち曇り。
最高気温は平年並みの所が多いが、東北では真夏日も。

【ふみの日】 文の日 Letter Writing Day

☆ふみの日とは、日本の郵政省が1979年に制定した毎月23日の記念日です。

<概要>

〇紫式部(むらさきしきぶ)さんが相手に送ったふみ

《紫式部》さん

天禄元年(970年)~天元元年(978年)?
ー長和3年(1014年)~長元4年(1031年)?

平安時代中期の歌人で作家で女房(女官)です。

「源氏物語」の作者とされていて、
源氏物語は生涯で唯一の物語作品となっています。

[歌人として]

「百人一首」の和歌が知られていて・・・

・紫式部日記(10首)          

・後拾遺和歌集(ごしゅうわかしゅう)

・中古三十六歌仙(ちゅうこさんじゅうろっかせん)

・女房三十六歌仙(にょうぼうさんじゅうろっかせん)

これら等を残しています。

又、和歌は795首が詠み込まれました。

娘の大弐三位(だいにのさんみ)さんは・・・

・百人一首

・女房三十六歌仙

これらの歌人として知られています。

《大弐三位》さん

平安時代中期の女流歌人です。

・父:藤原宣孝(ふじわらののぶたか) さん

・母:紫式部 さん

〔本名〕

 藤原賢子(ふじわらのかたいこ) さん

〔別の呼び名〕

 ・藤三位(とうのさんみ) さん

 ・越後弁(えちごのべん) さん

 ・弁乳母(べんのめのと) さん

このようにお名前があります。

《藤原宣孝》さん

???ー長保3年4月25日(1001年5月20日)

平安時代中期の貴族です。

藤原北家高藤流で権中納言、藤原為輔(ふじわらのためすけ)さんの子です。

官位は正五位下で、右衛門権左です。

円融(えんゆう)朝末に六位蔵人(くろうど)兼左衛門尉を務め、
永観2年(984年)に円融天皇が花山(かざん)天皇に譲位しますと、
自らは院半官代(いんはんかんだい)に補されます。

しかし・・・

間もなく、花山天皇の蔵人に転じました。

一条(いちじょう)朝の正暦元年(990年)、
筑前守に任ぜられて筑紫に赴任しますと、
正暦3年(992年)頃に大宰少弐も兼ねています。

後に・・・

左衛門権左として京官に復します。

長徳4年(998年)山城守を兼ねますが、
この頃に紫式部さんと結婚しています。

又、任期時期は不明で弁官を務めたようですが、
蔵人と右衛門権左「検非違使左(けびいしさ)」と同時には兼帯せずに、
三事兼帯(さんじけんたい)とはなりませんでした。

疫病の為に長保3年(1001年)4月25日に卒去しました。

「紫式部集」には、
夫の藤原宣孝さんの死去に伴いまして詠んだ和歌があります。

「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」

このような和歌がありまして、収められています。

〔紫式部さん宛てに贈られた歌〕
 
 「雲の上の もの思ふ春は 墨染に霞む空さへ あはれなるかな」

 「東三条院様が崩御された為に悲観にくれている春は、
  薄墨色に霞む空までも悲しく感じられる」

 紫式部さんは、上記に紹介しましたように、
 1001年(長保3年)4月25日に夫である藤原宣孝さんと死別しています。

 そして・・・

 1001年12月22日には、
 藤原道長(みちなが)さんの姉で一条天皇の乳母であります、
 藤原詮子(せんし・あきこ)様が崩御されています。

 上記の歌は翌年になりますが、
 薄鈍色の喪服を着ていた紫式部さんの所へ宮中からの使いがやってきまして、
 贈られた歌です。

 「夫を亡くしたあなたも、この空を同じ思いで見ていらっしゃることでしょう」

 このような意味が込められています。

 「なにかこの ほどなき袖を ぬらすらむ霞の衣 なべて着る世に」

 「女院が崩御されて国中の人が喪服を着ている時に、
  夫の死を悲しんではいられません」

 こちらは紫式部さんの返歌です。

 1001年(長保3年)閏12月22日のことですが、
 藤原行成(ゆきなり)さんの屋敷で崩御した藤原詮子様は、
 烏戸野陵で火葬されました後、宇治陵に葬られました。

 生前の希望によりまして、土葬とされています。

 藤原行成さんの「権記(ごんき)」によりますと、
 詮子様が崩御されたのは16日の明け方です。

 そして、23日に遺体を六道の辻の六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)に
 安置しました。

 27日に烏戸野へ葬送しました。

 「栄華(えいが)物語」によりますと、雪の降る中での葬送です。

 葬儀を取り仕切りましたのは、
 父の藤原道隆(みちたか)さんに仕えました人で、
 平惟仲(たいらのこれなか)さんです。

 紫式部の異母弟である定暹(じょうせん)さんは、
 比叡山延暦寺の層として詮子様の追善供養に出仕しています。

 ≪定暹≫さん

  1011年(寛弘8年)一条天皇の大葬に御前僧として参列しました。

  その後・・・

  三井寺「(みいでら)(園城寺(えんじょうじ)」に移住しますが、
  父の為時(ためとき)さんは、
  1016年(長和5年)に三井寺で出家しています。

  *紫式部さんは一条天皇の中宮である藤原影子様に仕えていました。

   *藤原影子様・・・あきこ・しょうし:
 
    藤原道長さんの長女で988年(延々2年)に誕生しました。
    母は源倫子(みなもとののりこ)さんです。

    紫式部さんの「源氏物語」の主人公の、
    光源氏(ひかるげんじ)さんの初恋の人である藤壺さんは、
    この藤原影子様がモデルともいわれています。

〇光源氏さんが初恋の相手である藤壺さんに贈った和歌

光源氏さんとは女性にモテた、自身も謎多く恋多き人です。

その光源氏さんの初恋のお相手は、
致知である桐壷帝(きりつぼてい)の後妻であります「藤壺の宮」様です。

*桐壺帝・・・理想的帝王として「源氏物語」では描かれていまして、
       聖代(せいだい)とされる醍醐(だいご)天皇の時代が、
       モデルとされています

藤壺の宮様は御父様の奥様、つまり光源氏さんの義母にあたりますので、
禁断の恋という訳です。

この藤壺の宮様がお詠みになられた和歌の一つがこちらです。

「物思ふ 立ち舞ふべくも あらぬ身の 袖うちふりし 心知りきや」

「あなたを想い、舞うこともやっとという私の心を御存知でしょうか。
 あなたへと振る袖の心を知らない訳ではないでしょう」

こうして光源氏さんは藤壺の宮様がご出席する宴で、
舞を披露しました。

そして・・・

その宴の後、藤壺の宮様にこの和歌を贈りました。

問題 上記の「袖を振る」の意味を教えてください。

1、あなたのことを本当は嫌い。

2、あなたの為にとアピール(大好き)

3、本当は早く縁(えん)を切りたい。

ヒント・・・〇青海波(せいかいは) 舞のしぐさ

      「源氏物語(紅葉賀)」におきまして、
      光源氏さんは「青海波」を舞いながらそれとなく、
      個人的な思いを藤壺の宮様に向かって発しています。

      光源氏さんが舞を舞った場面は、
      紅葉賀巻におけるこの桐壺帝の主催する試楽と、
      桐壺帝が朱雀院行幸(すじゃくいんぎょうこう)における場と、
      花宴巻冒頭の桐壺帝主催の紫宸殿(ししんでん)における
      花宴の三箇所です。

お分かりの方は数字もしくは「袖を振る」の意味をよろしくお願いします。




















Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.