Nicotto Town


かきくけこのブログ。


嘘つきで感謝しない人に「嘘だよね?」と指摘したら

感謝しない、ごめんんといわない、あまつさえ現実を曲解して自分の都合よ~く解釈し、まぁ解釈するだけなら問題はないけれども、その現実を押し付けてくる人に、


「それ嘘ですよね。そんな事実なかったですよね」

と指摘してみた。わくわくした。嘘つきに嘘を指摘してみたら、どうなるんだろう?と、わくわくしました。「ええ?そんな事ないですよ?ほんとですよ~」と、自分の嘘をごり押しするのだろうか❔それとも、素直に認めて謝るのだろうか??

答えは

「あ、まぁそうです、おっしゃる通りの事実だったんですけど、その時は私に個人的な都合があって、そのために泣く泣くそう言ったんですよ~」←自己都合の嘘というものを限りなく美化したらそうなんだな勉強になった。そして謝らなかった。


と、一応自分のついた嘘を認めるそぶりをしつつも、でも嘘と言いたくない、それは嘘ではなく、過剰に言い過ぎた結果そう言いたくなかった自分の感情(泣く泣くそうしたかった)という、感情を最大限に伝えてたんですよ~、というすり替えみたいな答えが返ってきた。そして、齟齬があった事について「謝らない」というのが答えでした。

まぁ、本人としては「とっても大変なんだよ~~~~私~~~」と言いたいのはwかる。大変なんだろうなと。大変な人に「もっと苦しめ」といわんばかりに追い打ちをかけるような事はしたくない。インドに海外旅行に行った人の話を聞いた時「現地の物乞いがどんなに可哀そうでも、どんなに哀れでも、どんなに貧しくても、けしてものあげたらいけないよ。あげたら大変な事になるんだから」と言っていた時、日本に生まれただけの無能な私がインドの乞食に何もできない百円さえ与えてはいけない、それどころかそれは「やっちゃいけない」と強く止められる事なんだな…と、乞食に対して自分が何かできないという事実にモヤモヤした事があったんですけど、なぜか日本の令和時代になって私はそれを思い出しました。日本社会で、自分は哀れだと同情をひく乞食というのは、そうそう見かけません。でもなんだか、忙しいから可哀そうだと言うママを見て、なぜか私はインドの乞食と、インドの乞食に何もするなと言った日本人の人間を思い出してしまった。何が正しいのかよくわからないけれども、乞食に何もするなと言った日本人は女性で社会で仕事を持って働いているタイプの人間だった。働いている人は乞食に対してとても厳しい。私みたいな専業主婦の人のほうが、ボランティアしたりするんだろう。社会で働いていたら、乞食に対しての考え方というのは洗練され社会的思考になっていくのだろうか。一人の人間の苦しみを前に、かわいそうと思うのも間違いなんだろうか。でも、社会的な立場や自分という人間がするべき義務を想えば、人間の気持ちや感情なんてなんて意味ないんだろう。私がインドの乞食に百円あげたって確かに何もかわらない。何もしなくても何もかわらない。悲しくて冷たいと思っていたバリキャリ女性の先輩のくれくれ乞食への対応を、今少しだけ理解できるようにもなってきた最近。

だけどやっぱり
 でもそれでも何かできるなら、何かしときたいというのも事実なので、ああ乞食に何か施せるほど私は立派な人間じゃない無職だし。と思うんで、本当にそういうのこそ、有能な人、世にでている小池都知事みたいな女性のリーダーみたいな人が、困っている大変な女性に手を差し伸べてあげて欲しいと思うんですよね。でもそういうバリキャリ人は海外旅行でファーストクラスに乗ってる人同士で「絶対に施しなんかしちゃだめだよ!」と互いに互いを、同じレベルの人同士で助け合っているんだろうな。はぁ~。自分の周囲には自分と同じレベルの人が寄ってくるという事なんで、きっと私のレベルが低いから、ずるい嘘をついて図々し頼み事をしてくる「私って大変で困ってるから」って言う同情を恥ずかしげもなく堂々と平気でニコニコ笑顔で同情をみずからすすんで同情をひいて助けてもらうタイプの人がよってくるんだ。きっと私にも、同じような汚点はある。その人が私の前にいるということは、私に問題があるからなのだ。つくづく、自分の業深さが嫌だ。





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