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横浜開港記念日

ニコットおみくじ(2024-06-02の運勢)

おみくじ

こんにちは!西日本は昼頃まで雨。

東日本と東北も急に激しい雨が降る恐れがある。
北海道は大体晴れ。
沖縄は雨。
気温は平年並みかやや低い。

【横浜開港記念日】 Yokohama Port Opening Anniversary.

☆横浜港の開港を祝う記念日で、毎年2日にあたります。

<概要>

〇横浜開港記念日 開講して165年!

@開港までの歴史

 寛永6年(1853年)アメリカのペリー提督が浦賀へ来航します。

 アメリカ・東インド艦隊の司令官ペリーさんが黒船を率いて来航しました。

 煙を噴き上げるその威容は蒸気船を見たこともない人々にとり、
 脅威だったに違いありません。

 瓦版を通じて、
 ペリーさん一行の様子が江戸庶民の間い伝えられていきます。

 ★瓦版

  鬧(さわ)がしや心中おこす土版木。

  この旬が変禄10年刊の「俳諧塗笠」にあり、
  心中事件をやたら報道する土版木(瓦版)があると伝えています。

  実際に瓦版という言葉が文献に登場するのは、幕末近くになってからです。

  古くは大坂夏の陣の報道、近くは明治中期まで、
  新聞にとって替わられてしまうまで様々な形態を変えつつも、
  庶民の身近なメディアとして存在したのが瓦版とされています。

  実際に土に固めた版を用いた摺りものもありますが、
  この種の摺りもののほとんどは木版によるものでした。

  浮世絵や書物の版木のように精緻(せいち)なものではなく、
  一見粘土板を用いたと思われるような粗悪なものであることが、
  瓦版と称される摺りものに共通しています。

  江戸期に庶民の間に流行した一枚摺りの類に見立て番付があります。
  これは芝居や相撲の番付、役付に擬して山や川、神社仏閣等の名称旧蹟、
  学者、医師、芸妓等の人物、銘木、珍獣等の動植物に至るまで、
  ありとあらゆるものを位付け、芝居の役に当て込んだものです。

  本来これらの番付は一枚ずつ売り捌かれていたものですが、
  幕末近くに纏(まと)められ、冊子に仕立て販売されたものが現れてきます。

  「江戸自慢」や「浪花みやげ」等と標題されたものがそれにあたります。
  
  その中には必ずしも見立ての番付の体裁を成していないものもありますが、
  その序跋(じょばつ)を見ると、
  それらも含めて番付と呼んでいたことが分かります。
  又、往時の好事家の集めた張込帖もあり、
  娯楽的な読みものとされていました。

  瓦版の方は板行形態が種々様々により、
  そのような形で伝わるものは少ないです。

  西垣文庫中に「江戸大地震記事」と題された巻子があり、
  これには26枚の安政地震関係の瓦版や鯰絵が張り込まれています。
  又、安政地震関係の同種のもので刊行された「安政見聞誌」は、
  瓦版等の再録物として珍しい出版物です。

  瓦版や番付等の一枚摺りの仲間は、
  一時的な情報、或いは娯楽として読み捨てにされたもので、
  書物とは別のあり方のメディアでした。

  書物につきましては書物屋仲間、
  或いは書林仲間が出版物の記録を残しているが、
  一枚摺りの類は範疇(はんちゅう)に入らず、
  出版の形態が解明されていない部分が多いです。

  板行は草双紙や壱枚絵を扱う草双紙屋が行ったのであるが、
  どのくらいの数が作られたのか、その値段は幾らだったのか等は不明です。

  瓦版や番付、その他ここにみられるような一枚摺りの出版物は、
  近年幾つかのコレクションが複製や影印で刊行され、
  展覧会の開催等が行われたりして、研究や調査に便利になっています。

  しかし、まだまだその全容が分かるところまでは進んでいません為、
  その他の一枚摺りも含め、発掘が行われることが期待されています。

 安政元年(1854年) 日米和親条約(神奈川条約)締結

 安政5年(1858年) 日米修好通商条約により神奈川開港決定

 安政6年(1859年) 横浜が開港し、東西の波止場が建設

ペリー艦隊を率いて初めて東京湾の入口である浦賀沖に来航しましたのは、
1853年7月8日です。

2回目の来航は1854年2月13日です。

艦隊は横浜の小柴村(現:横浜市金沢区)の沖合に、
錨(いかり)を下ろしました。

横浜村で3月8日から日米交渉が始まりまして、
3月31日に日米和親条約が結ばれました。

この後・・・

ペリー艦隊が後に開港場になります下田(現:静岡県下田市)に向けて、
東京湾を離れましたのは4月14日です。

その間の2カ月間、黒船はまじかに眺められる位置にありました。

ペリー艦隊の船は9隻で、乗務員は2000人を超えました。

彼らは度々上陸しまして、
人々は乗組員が持参しました西洋の文物に驚きの声を上げました。

来航した艦隊が初めて浦賀沖に停泊された際、
周辺には大勢が集まりまして「黒船見物ブーム」が巻き起こりました。

やって来た人々はその姿を記しましたが、
中でも廻船(かいせん)業を生業(なりわい)とした人物が、
「海に浮かぶ城を眺めているようである」と評しまして、
水車型の推進器(外輪)や搭載された大砲につきましても、
日記に詳しく書き留められています。

しかし・・・

停泊中に日米交渉が繰り返される過程で、
戦争にはならないことを敏感に感じ取り、恐怖心は次第に薄れました。
その為、むしろ強い好奇心を持って艦隊乗組員に接するようになっていきました。

僧侶は4月に艦隊が東京湾から退去する際・・・

「村民が乗組員との別れを惜しむようにまでなった」

このように記されています。

日米和親条約が武力行使を伴わず結ばれたことが幸いした形になりました。

こうした親近感が明治時代に向けて日本人が大きな抵抗もなく、
西洋文化を受け入れていくことにも影響を与えたようです。

問題 横浜にとって誕生日の開港記念日(6月2日)でありますが、
   メインテーマの中の〇〇に入る言葉を教えてください。

   Thanks to the Port「開港を祝い、港に〇〇しよう」

1、感謝

2、祝福

3、拍手

ヒント・・・〇姉妹都市提携の経緯

      @横浜市とサンディエゴ市との姉妹都市提携日

       1957年(昭和32年)10月29日

       1955年10月サンディエゴ在住の村岡三郎さんの提案により、
       横浜市から雪見灯篭(ゆきみとうろう)を
       寄贈したことをきっかけとします。

       《村岡三郎》さん

       1928年6月25日ー2013年7月3日

       大阪府出身の彫刻家です。

       1955年11月に横浜で開催された日米市長及び、
       商工会議所会頭会議に出席した際に、
       サンディエゴ市長からの申し入れがありまして、
       1957年に姉妹都市の提携に至ります。

       ☆良き友人として

        平成15年10月にカリフォルニアで大規模な森林火災が発生。
        サンディエゴでも多くの被災者が出ました。   
    
        横浜市は約1か月にわたり募金活動を実施しまして、
        寄付は約200万円に及びます。
 
        横浜市の善意に対しまして、
        サンディエゴから〇〇の声が多数寄せられました。

お分かりの方は数字もしくは〇〇に入る言葉をよろしくお願いします。

  
  

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2024/06/03 01:06
こんばんは!日付が変わりまして月曜日ですね。
ねこさん、お忙しい時間にこうしてお答えとコメントと絵文字をありがとうございます。
 おお~、問題についてですが1番の「感謝」です。
素晴らしいですね!大正解です。
ねこさん、どうもおめでとうございます(祝)
 とんでもありません、こちらこそいつもありがとうございます。
はい、ありがとうございます。
 ねこさん、本日もお天気の予報は悪いでしょうか?
こちらは雨の予報が出ています。
その為、気圧の変化で体調を崩しやすい気候になりそうですので、
ねこさん、どうかご無理をせずにお過ごしください。
どうか雨でのお怪我等にならないように、十分にお気をつけてくださいませ。
どうか、ゆっくりとおやすみくださいませ。
ありがとうございました。
アバター
2024/06/02 23:42
1、感謝 !(笑)

いつも丁寧に、ありがとうございますo(_ _*)o



 おこんばんは☆
 良い夢を~♪
 ⚫_____⚫
ヾ(,,● ᴥ ●,,)





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