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京都地蔵盆

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【京都地蔵盆】 きょうとじぞうぼん

☆京都を繋ぐ無形文化遺産の選定第3号として、
 「京の地蔵盆ー地域と世代をつなぐまちの伝統行事」を選定しました。

 ■地蔵盆
 
 子供の健康や幸せを願うと同時に、
 日頃の地域の平和をお地蔵さんに感謝するお盆の行事です。

 地蔵盆はお寺で行われることもありますが、
 道端や町角にお祀りされている「辻(つじ)地蔵」と呼ばれる、
 お地蔵さんのある地域の子供会や町内会、自治会が主体となって行われます。

 *辻地蔵・・・道傍(どうぼう)に建てられた石の地蔵

 *道傍 ・・・道端、路傍(ろぼう)

 尚、京都では地蔵盆を「京の地蔵盆」として、
 京をつなぐ無形文化遺産に選定し、
 世代を超えて地域の結びつきを深める行事として大切にしています。

<概要>

〇地蔵盆

お地蔵様の多い京都が発祥といわれ、
近畿地方を中心に古くから伝わってきました。

@開催日

 毎年8月23日と24日の二日間開催され、
 この時期になるとお地蔵様にお供えをしたり、地域のお祭りが開催されます。

@意味・由来

 ★地蔵菩薩様・道祖神様

  □地蔵菩薩様

  お寺等にお祀りされているお地蔵様ではなく、
  辻地蔵という道端や街角の身近なお地蔵様を対象としています。

  元々お地蔵様は民間の信仰の神様という捉え方でしたが、
  実は仏教に属する地蔵菩薩様でした。

  ■道祖神様

  平安時代からは地蔵信仰が民間に広がり、村を守る道祖神様でもあり、
  地獄の鬼から子供を救う子供の守護神ともなっています。

@関西では定着、関東では定着せず

 地域により、信仰の歴史が異なります。

 ☆京都

  室町時代に地蔵盆が大流行しました。

 ★東京

  江戸時代に初めてお地蔵様が造られたことや、
  お稲荷さん信仰が盛んだったことが定着しなかった理由といわれています。

@小野篁(おののたかむら)さんのエピソード
 
 《小野篁》さん

 延暦21年(802年)ー仁寿2年12月22日(853年2月3日)

 平安時代初期の公卿(くぎょう)様で文人です。

 「野狂(やきょう)」とあだ名される程の反骨精神を持ちまして、
 流罪から復活出来る程のやり手官僚です。
 又、詩歌に優れまして、不可思議な伝説を持つ人物です。

 〔生涯〕

  小野篁さんの父親は
  現代でいいますと閣僚に相当する参議の小野岑守(みねもり)さんです。

  小野篁さんは晩年に父親と同じ役職の参議に就いています。

 〔家柄〕

  小野家は遣隋使、小野妹子さんを租にもつ貴族で、
  長く外交に携わった家系です。

  一族には・・・

  ・小野道風(とうふう)さん:書家

  ・小野好古(よしふる)さん:武人

  ・小野小町(こまち) さん:歌人

 〔朝廷での小野篁さんの活躍〕

  少年時代には弓馬(きゅうば)に夢中になりすぎまして、
  それを嵯峨(さが)天皇に嘆かれました。

  そこで、小野篁さんは心を入れ替えて学問に精進します。
  そして、文章正試にも合格をしまして、後には優秀な学者となりました。

  又、政務能力に長(た)けた官僚としても活躍します。

  仁明天皇の皇太子である常貞親王の東宮博士や、
  文徳天皇となった道康親王の東宮博士として、
  漢詩を中心とした勉学の師も務めています。

  又、法についての知識も豊富だった為、
  律令の解説書である「令議解」の編纂にも加わっていまして、
  序文を執筆しました。

 〔遣唐使放棄、流罪からの復活〕

  834年には遣唐副使に任ぜられました。

  しかし・・・

  2度の唐への渡航の失敗の後、838年の3度目の航海にあたりまして、
  遣唐大使・藤原常嗣(つねつぐ)さんの無茶に抗議しまして、
  渡航を拒否します。

  その上、遣唐使の事業や朝廷を風刺する漢詩を詠んだ為に、
  嵯峨天皇の逆鱗に触れまして、同年に隠岐の国への流罪となりました。

  小野篁さんは多大な犠牲を払ってまで行う、
  遣唐使の事業の限界に気づいていたようです。

  現に小野篁さんが断りました遣唐使船が、
  事実上の最後の遣唐使となっています。

  小野篁さんは2年後の840年に、罪を許されまして朝廷に復活します。
  
  その文才の優秀さに免じて官位も流罪以前のものに戻されまして、
  そこから再び昇進していきました。

  東宮学士、従四位下・蔵人の頭等を経て、
  847年には参議となりまして公卿の仲間入りを果たします。

  850年に文徳天皇の元で従三位に叙(じょ)せられますが、
  同年、病の為亡くなりました。

  無くなる前には文徳天皇は小野篁さんを心配して何度も使者を使わせまして、
  病気の治療を金銭的にも援助したといいます。

  小野篁さんは自分が死んだ時は他人に知らせずに、
  直ちに葬儀を行うことを命じていたそうです。

 奈良県の金剛山寺である、
 通称「矢田寺(やたでら)」に伝わるエピソードがあります。

 小野篁さんという、
 平安時代前期の役人であり、学者、歌人の顔を持つ人物がいました。

 朝廷で使える一方で、夜には井戸を伝って地獄に降りまして、
 閻魔大王様に使えて裁判の手伝いをしていたといいます。

 ある夜に小野篁さんが地獄に降りますと、
 閻魔大王様が地獄で苦しむ死者の代わりに自身の体を、
 地獄の炎で焼いて、苦しむ姿を見てしまいました。

 閻魔大王様は、弱い人を守ってくれる存在だったのです。

 閻魔大王様といえば、地獄の王様のようなイメージがある人が多いですが、
 実は地蔵菩薩様の化身とされています。

 そこで、師弟関係にありました満慶(まんけい)上人と小野篁さんが、
 そんな閻魔大王様の為に供養をしました。

 その地蔵菩薩の縁日(命日)が、
 旧暦で7月24日(新暦:8月24日)となっていまして、
 後に地蔵盆となりました。

@夏の終わりにお盆

 地蔵菩薩の縁日が毎月24日を中心に行われていますが、
 「地蔵講(じぞうこう)」という地蔵信仰のグループが行う活動が、
 旧暦で7月24日を特に「大縁日」として重視していました。

 そして・・・

 たまたまお盆に一番近い月だったことから、
 地蔵盆と呼ばれるようになったといわれています。

問題 お地蔵様のお清めやお化粧についてでありますが、
   地蔵盆が近くなってきますと、
   祠からお地蔵様を出して綺麗に洗いまして、
   新しい前掛けをかけます。

   次の文章の〇に入る色を教えてください。

   子供がお地蔵様に〇粉を塗ったり、
   カラフルにお化粧をします。
   又、お供え物や提灯等も準備します。

1、白

2、黒

3、紅

ヒント・・・〇新編相模国風土記稿

      足柄上郡苅野庄弘西寺村の「地蔵堂」の名で・・・

      「化粧地蔵と唱ふ。誓願する者。必 〇粉或 胡粉をもて。
       佛面を塗抹するが故。この名ありと伝。
       甲州道の側にあり。堂前の坂を化粧坂と伝。」

      こちらの地蔵尊は現在では〇地蔵尊と呼ばれていまして、
      座高は約80cm、礫岩で造られた祠の高さは115cmです。
      願いが叶ったら、顔面に「うどん粉」を塗る習慣があります。
      
お分かりの方は数字もしくは文章の〇に入る色をよろしくお願いします。




  













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2024/08/25 16:58
こんにちは!少し雲が増えてきた日曜日の夕方になります。
スズラン☆さん、お忙しいところ、コメントとお答えをありがとうございます。
 そうですか、大阪市内には小さなお地蔵様が近くにありますか。
そうですか、8月末頃に軽いお祭り飾りをなさる習慣があり、
地元で愛されているのですね。
そうですね、小野篁さんの功績を感じますね。
 問題ですが、1番の白色で大正解です。
どうもおめでとうございます(祝)
そうですか、紅をほっぺにされている画像があり、可愛かったですか。
人々を微笑ましくなさる環境にするのも、素敵な文化ですね。
現在、今夜もスズラン☆さんにとりまして、有意義に過ごせることを心よりです。
アバター
2024/08/25 16:18
大阪市内ですが、小さいお地蔵様が近くにあって
8月末頃?に軽いお祭り飾りをされて愛されていますよ。

小野篁さんの苦労が有難いですね。

答え 1 紅をほっぺにされてる画像もありましたね、可愛かったです




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