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鎌倉鶴岡八幡宮流鏑馬神事

ニコットおみくじ(2024-09-16の運勢)

おみくじ

こんにちは!前線の影響で九州から関東の所々で激しい雨や雷雨。

東北、北海道は秋晴れの所が多い。
沖縄は晴れ。
九州から東海は厳しい残暑に。

【鎌倉鶴岡八幡宮流鏑馬神事】 かまくらつるがおかはちまんぐうやぶさめしんじ

☆鎌倉八幡宮の流鏑馬神事は、源頼朝公が天下泰平・国家安穏の祈願し、
 鎌倉時代に催されたのが始まりです。

 年に1度の一大行事で多くの人々の前で御家人達が御神前で、
 弓馬の技を披露する晴れの場でありました。

 [鎌倉八幡宮]さん

 住所  :神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31

 電話番号:例大祭(鶴岡八幡宮)0467-22-0315

<概要>

〇鎌倉鶴岡八幡宮流鏑馬神事

武者姿の射手(しゃしゅ)が疾走する馬上から、
三カ所の的を射抜く伝統神事です。

@奉納が起源

 古くは平安時代の記録に見えますが、
 鎌倉では1187年(文治3年)8月15日に、
 源頼朝公が鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)に奉納したのが最初です。

 ★放生会

  1187年(文治3年)8月15日、源頼朝公は・・・

  ・源範頼(のりより)さん      ・大内義信さん

  ・加々美遠光(かがみとおみつ)さん ・安田義定さん

  ・伏見広綱さん           ・小山朝政(こやまともまさ)さん

  ・千葉常胤(つねたね)さん     ・三浦義澄(よしずみ)さん

  ・八田知家(はったともいえ)さん  ・足立遠元(あだちとおもと)さん

  これらの方々を共に鶴岡八幡宮の放生会に参列しました。

  これが現在の鶴岡八幡宮例大祭の始まりです。

  放生会は仏教の殺生(せっしょう)を禁じる思想に基づくもので、
  魚や鳥等を山野に放ちまして、
  善根「ぜんこん(良い報いを招く基となる行為)を施すという、
  仏教の儀式です。
   
  鶴岡八幡宮の放生会では源平池(放生池)に鯉等を放ちまして、
  善業を積むという意味合いが込められていたといいます。

  「吾妻鏡(あづまかがみ)」には8月1日から8月15日までの間、
  殺生を禁止することを関東の荘園(しょうえん)等に命令しまして、
  鎌倉の海、浜、川、溝等でもこれを守らせるよう、
  命令されたことが記されています。

  □吾妻鏡

  鎌倉時代に編纂された歴史書です。

  ◆内容

   鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝公の話から、
   第6代将軍の宗尊(むねたか)親王まで6代の将軍記となっています。
   
   《宗尊親王》

   1242年ー1274年 鎌倉幕府第6代将軍

   在職は1252年から1266年で、御嵯峨天皇の皇子です。
 
   謀叛の疑いで京に送還されまして、後に出家致しました。

   謀叛とは文永3年(1266年)に北条氏に対する謀叛の疑いです。

   又「万葉集」の言葉等を用いまして、多くの作品を残しました。

   〔歌集〕

    ・瓊玉(けいぎょく)和歌集     ・柳葉和歌集

    ・中書王(ちゅうしょおう)御詠   ・竹風和歌抄
 
    *瓊玉 ・・・美しい赤い球

    ・中書王・・・中務卿(なかつかさきょう)になりました親王です。
           特に文人として有名な兼明(かねあきら)親王と、
           具平(ともひら)親王を、
           前中書王と後中書王と称しました。

   鎌倉幕府の歴代将軍を軸にして、
   東国の武家社会の歴史が詳細に記載されていることから、
   1級史料としての評価が高いです。

   この「吾妻鏡」は戦国時代に徳川家康公が愛読して以来、
   世に広まりました。

   吾妻鏡(東鑑)が成立(編集完了)したのは、
   鎌倉時代末期の1300年頃(北条時宗公)の時代と考えられています。

   武士、寺社、公家の日記や訴訟の記録等を掘り起こしまして、
   日にち別に編集をしたとされています。

   北条時政さんや北条義時さんの行動を、
   正当化する場面や北条得宗家の活躍が強調していることから、
   執権の北条氏関連の者が編集したと考えられています。

   源頼朝公が挙兵した1180年から1266年までの、
   87年間が描かれていまして、
   全52巻で構成されていますが、全体の巻数は不明です。

   ただし・・・

   第45巻は所在不明でありまして、
   第1巻から第24巻までが源氏3代、
   そのうち15巻は源頼朝公の将軍記となっています。

   ・1183年          ・1196年

   ・1197年          ・1198年

   ・1242年          ・1249年

   ・1255年          ・1259年

   ・1262年          ・1264年

   この上記の年に関しましては、ほぼ欠落していまして動向は不明です。

   源頼政公、以仁王(もちひとおう)、源頼朝公が1180年でありまして、
   1185年に平氏が滅亡しまして、
   源頼朝公によりまして、守護・地頭(じとう)が設置されました。

   その間の1183年は、平家物語等から察するしかありません。

   又、源頼朝公が死去した1199年までと、
   1196年から無くなるまでの重要な約3年間の記録がありません。

   その為・・・

   北条時政さんと北条泰時さんと源頼朝公の関係に、
   不審な点があったとも考えられています。

   後から3年分抜かれたということではなく、
   最初からこの3年間には触れずに編纂されていまして、
   吾妻鏡の中の1212年の記載の途中に過去の振り返りのような形で、
   源頼朝公が落馬した後に、死去したことが分かっている次第です。

   現在に伝わる吾妻鏡は、
   写本で戦国時代の1590年に豊臣秀吉公が小田原攻めをしまして、
   小田原城が降伏開城した際に、
   北条氏から黒田官兵衛さんに贈られた「北条本」と呼ばれるもので、
   江戸時代初期の1604年に黒田長政公から徳川秀忠公に献上されました。

   吾妻(あづま)という意味は、
   京都から見て関東(鎌倉)のことで「東国」を指しています。

現在も鶴岡八幡宮の鶴岡八幡宮の例大祭(9月16日)に、
流鏑馬神事が行われていまして、鎌倉時代の息吹を感じさせます。

問題 次の文章の〇〇に入る言葉を教えてください。

   例大祭における流鏑馬神事は「〇〇拝戴(たいたい)式」に始まります。

   まず、下拝殿で儀式を行いまして、
   「馬場入りの儀」として神職の先導で順序・作法を守って、
   馬場を一巡します。

   その後、鎌倉武士の狩装束に身を整えた射手が、
   「あげ扇」の故実を行いまして、
   颯爽と馬場(全長約260m)に駆け込みまして、鏑矢を抜いて、
   約70m間隔で三カ所に立てられた正方形の杉板の的を次々に射抜き、
   そのまま駆け抜けていきます。

   3人の騎射が終わりますと、装束を軽装に改めまして、
   やや小型の的板で、刃のついていない鏑矢を用いる、
   騎射挟物が十数騎行われます。

1、神酒(みき)

2、賜剣(しけん)

3、お食(く)い初め

ヒント・・・〇〇〇 

      〇〇にお供えをしまして、〇〇の霊力で宿った〇で、
      日本〇が一般的に使用されます。

お分かりの方は数字もしくは〇〇に入る言葉をよろしくお願いします。



 



 



アバター
2024/09/17 17:51
こんばんは!お忙しいなか、どうもありがとうございます。
スズラン☆さん、どうもお疲れ様です。
 おみくじですが「大吉」でした。
どうもありがとうございます。
 そうですね、行事が今も続いているということは、
様々な問題を跳ね返したりしていますものね。
はい、わが国自慢のことですね。
問題ですが1番の神酒が正解になります。
スズラン☆さん、3問とも完璧でしたね。
素晴らしいです。
どうもおめでとうございました(祝)
 夜も蒸し暑い可能性がありますので、
どうか体調を崩さないように、水分補給等をしてお過ごしくださいませ。
アバター
2024/09/17 16:13
大吉おめでとうございます

その頃の行事が今も続いているというのは
伝統が残る我が国の自慢だと思いました。

答え 1 




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