中村屋さんが創業
- カテゴリ:グルメ
- 2024/12/30 01:40:52
こんばんは!30日は北日本や東日本から西日本の日本海側では雲が多く、
雪や雨の降る所があるでしょう。
日本海側では雷を伴った雪や雨の降る所もある見込みです。
その他の地域は概ね晴れますが、午後を中心に所によりにわか雨がありそうです。
【2024年に買って良かった物】
A、ジャックフルーツです。
【中村屋さんが創業】
☆1901年(明治34年)12月30日、
東京都文京区にパン屋「中村屋」さんが創業されました。
東京大学正門前にありましたパン販売店「中村屋」さんを・・・
・相馬愛蔵(そうまあいぞう)さん
・相馬黒光(そうまこっこう)さん
上記の夫妻が買い取り、名称はそのままで個人経営として営業を開始しました。
相馬夫妻は・・・
・クリームパン
・中華まんじゅう
これらをはじめ、
当時世界的にも珍しい独創的なパンを次々と考案していきました。
又、夫婦ともに当時はまだ珍しい大学出の商人であったことから、
親しみを込めて「書生パン屋」の愛称で呼ばれまして、店は大繁盛します。
後に・・・
相馬夫妻の娘さんがインド人の方と結婚したのを機に、
本格的なカレーの勉強も始め、
これまた珍しい「純インド式カリー」の販売も、
日本で初めて行っています。
近年ではパンをはじめとした、日本を代表する老舗食品メーカーとして、
今も尚、業界を牽引し続けています。
<概要>
〇中村屋さんが創業
開業以来、商売は順調であったが、その増収が税務署の目に留まります。
当時の課税の仕組みから、大抵の商人は実際の売上高よりも少なく申告し、
税務署もそれを見越して上乗せ課税することが慣例となっていました。
しかし・・・
創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻は売上高を正直に申告した為、
中村屋さんにとって過酷な税を課せられてしまいます。
そこで・・・
夫妻は「売り上げを増やす他に道はない」と考え、支点を出す決心をします。
まず有望とみられる地域に従業員を行商に出し、市場を確かめます。
*有望とみられる地域・・・大久保の新開地や千駄ヶ谷方面
さらに・・・
夫妻は自分の目でも確かめたいと、千駄ヶ谷から今の新宿辺りまでを視察します。
そこで愛蔵さんが見つけたのが、新宿でした。
「将来の発展の上から、市内電車の終点以外に敵地はない」
*相馬愛蔵さん「一商人として」より
行商で得られたお得意様の数よりも、将来性で判断しました。
当時の新宿はまだみすぼらしい街でした。
「殺風景でちょっと裏手に入れば野便所があり、
筋向いの豆腐屋のブリキ屋根が風に煽(あお)られて、
バタバタと音をたてている」
このような荒(すさ)んだ雰囲気の場末でした。
「でもそれは新宿の外形であって、
もうその土地には隆興の気運が眼に見えぬうちに萌していた」
このように愛蔵さんは当時を振り返っています。
中村屋さんは・・・
1907年(明治40年)に支点を新宿に出店します。
そして・・・
その売り上げ好調をを見て、
1909年(明治42年)に本店を新宿の現在地に移転します。
それによりまして、中村屋さんの経営は新しい局面を迎えました。
製造場所が広くなり、売り上げの平準化を図り経営の効率を上げる為、
和菓子の製造販売を計画します。
パン屋の和菓子をお客様に評価していただくた為、
「材料の精選」に徹する必要があると考えた愛蔵さんは、
まず初めに上等の餅米を使用下賃餅を廉価で売り出します。
その策が功を奏しまして・・・
お客様から中村屋さんの商品は、
「材料を精選した優良品である」ことが認められまして、
和菓子の販売は軌道に乗りました。
《相馬愛蔵》さん
1870年(明治3年) 創業者の相馬愛蔵さんが長野県安曇野市穂高に、
誕生します。
〔壮年期(33~40歳)の相馬愛蔵さん〕
中村屋さんの創業者である、相馬愛蔵さんは、
父は相馬安兵衛さん、母はちうさんの三男として、
長野県安曇野市穂高に生まれました。
相馬家は祖父の代まで庄屋を努めていた地元の名家でしたが、
愛蔵さんが1歳にも満たない時に父が、その5年後には母が他界します。
愛蔵さんは年の離れた兄に育てられまして、
子供に恵まれなかった兄夫妻の養嗣子(ようしし)となりました。
*養嗣子・・・昭和22年の法改正まで続いた制度の一つで、
家督相続人となる養子のこと
《相馬星良(黒光)》さん
1875年(明治8年) 創業者の星良さん、
宮城県仙台市北四番町に誕生します。
〔星良(黒光)さん、1890年(明治23年)頃〕
星良(黒光)さんは父は喜四郎さん、母は巳之治さんの三女として、
宮城県仙台市北四番町に生まれました。
星家は元仙台藩士で祖父の雄記さんは、
評定役や勘定奉行等、藩の要職を務めていましたが、
戊辰戦争を契機に没落します。
その為・・・
良さんは幼少時代、貧しい生活を送ります。
1883年(明治16年)に片平丁小学校に入学します。
その通学時に聞こえた歌声に惹かれまして、
仙台教会に通うようになりまして、押川方義さんに教えを受けます。
*押川方義さん・・・キリスト教教育者
<お二人の歩み>
1884年(明治17年) 愛蔵さん、長野県中学校松本支校に入学します。
1885年(明治18年) 愛蔵さん、上級の木下尚江さんと親交を結びます。
〔信州時代の相馬愛蔵さんと友人達、1897年(明治30年)頃〕
信州時代の相馬愛蔵さんと友人達ですが、
木下尚江さん、百瀬興政さん、石川半山さんです。
≪木下尚江≫さん
ジャーナリストで思想家です。
・足尾銅山鉱毒事件
・普通選挙運動
これら等で知られた人物です。
松本支校時代の愛蔵さんの先輩で、生涯交友が続きました。
≪百瀬興政≫さん
政治家で松本市の二代目市長を務めた人物です。
≪石川半山≫さん
横浜毎日新聞や「万朝報」等で筆をふるった記者で、
「ハイカラ」という言葉の生みの親ということでも知られています。
1887年(明治20年) 愛蔵さん、東京専門学校に入学します。
*東京専門学校・・・現在の早稲田大学さん
1889年(明治22年) 良さん、仙台東一番丁教会で洗礼を受けます。
1890年(明治23年) 愛蔵さん、東京専門学校卒業後、
北海道に渡りまして、養蚕を学びます。
問題 愛蔵さんが出版された「蚕種製造論」、
1894年(明治27年)についてです。
次の文章の中の〇に入る文字を教えてください。
蚕種とは蚕の〇のことです。
高品質かつ大量の糸が得られる繭(まゆ)を作る、
飼育が容易な蚕を開発する為の蚕種製造は当時重要な仕事でした。
元々信州では養蚕が盛んな土地柄でありまして、
蚕の作る生糸から作られる絹製品は当時、日本の最大の輸出品でした。
その蚕を飼育や生産するだけではなく、愛蔵さんは研究もしまして、
その成果を公にすることで社会へ貢献を果たします。
当時、他にも「秋蚕飼育法」を出版しています。
1、卵
2、繭
3、糸
ヒント・・・〇蚕の〇
・一般に蚕種(さんしゅ)と呼ばれまして、
扁平な楕円形をしています。
・繁殖用の蚕は間もなく交尾し、500個程の〇を産みます。
お分かりの方は数字もしくは〇に入る文字をよろしくお願いします。
スズラン☆さん、どうもお疲れ様です。
そうですか、中村屋さんのアンパンを昔食されましたか。
ああ~、懐かしさが良いのですよね。
分かります。
スズラン☆さん、風邪が流行っていますので、
どうか体調を崩されないようにお過ごしくださいませ。
昔食べたことがあります。
懐かしい美味しさでした(^q^)
問題ですが1番の卵が正解です。
素晴らしいですね!どうもおめでとうございます(祝)
1.卵
では如何でしょうか?