色んな理由があり、色んな事情があり。
- カテゴリ:日記
- 2025/02/08 21:14:34
挨拶ができない大人は、家でDVされてた。
この日記に昔、感謝がズバ抜けて異常にできないママを発見した、と書いた。挨拶できない人というのは、割といっぱいいる。でもその人は物凄かった。抜群に異常にできないのか、しないのか、挨拶できてなかった。贈答品もタイミングがおかしかった。まぁ他人なので注意するとかそんな親切もせずにいた。
その後、その感謝のできない珍しい大人を、極力避けていた。しばらくして、そのあと、ひょんな事からその人が、「家で夫にごくごくかる~~いDV受けてる」ということをチラと聞いた。その瞬間、それまで正気を疑っていたその大人が、なんだか可哀そうな人なのかと思えるようになってきた。やっぱり普通じゃないな、と思ったその人は、自分の配偶者からも冷遇されてるのか。家族からも大切にされてないのか…という衝撃があった。そんな境遇に生きてたら、知人友人を大切にできなくても納得だなとか思ってしまった。考えなおすと、なんだかとてもどうしようもないこの現実に切なくなったというか、心がズタボロになってる状態では、人に感謝とか、心が死んだ状態でできるワケないんだよな、と考えると、本当になんだか悲しくなってきた。精神をすり減らしながら生きている人だったのか…とか考えると、それまで挨拶できない人の頑張りが足りないのかとかそういう「本人の問題」と思っていたことが、実は、「被害者だった」という悲壮な真実が見えてきたのだった。加害者だと思ったら、被害者だった…みたいな衝撃だった。日常的に暴力を受けていたら、挨拶という心と心を通わすような思いやりの必要な事柄にたいして、何が正しいのか、わからなくなってしまうのも仕方ない。なんだか、ワケわからん造悪な人っていうのがどうして生まれるのかみたいな事を知る時、いつもこういうやるせない、どうしようもない絶望感、やり場のない消えない怒りのような絶望感がしみついて離れてくれません。性格だから仕方ない。こういう性格だからこういう事をしてしまう。ジュリーの歌じゃないけど、聞き分けがない女だから殴った男が悪いのだけれど、聞き分けがなくなる原因の一つに誰かがもっと最初に守って大切にしてあげていたら、その人も聞き分けがよい性格になっていて殴られない女になっていたのではないのかとか。原因と結果がどうも納得できないような、本人だけが悪いという罪は世の中にあるのだろうけど、本人のせいばかりではないのではないか、といいたくなるような悲しい事態は間々あると思う。
親鸞聖人も妻殴っていた。
作家五木寛之氏の小説、「親鸞」という聖人がでてくるなが~い小説がある。そのなが~い小説の中で、親鸞聖人が一回妻に張り手をくらわすというシーンがあり、私は二十代の時に初めて読んだ時、「なんて悪い事をするお坊様なのだ」と衝撃をうけた。暴力どんな理由があろうと絶対にダメ、と思っていた二十代。でも最近、その本を読み続けて十有余年。親鸞聖人という男性が妻に手をあげたシーンというのは、それはどんな夫婦にもある、普通の場面なのかもしれない。という可能性を感じてしまった。いわずもがな、現実の自分の周囲を見渡せば、夫婦喧嘩のひどい話なんていくらでも転がっている。聖人だろうが妻を殴っていたのだから、普通の夫婦の間にも当然ながら当たり前に実は暴力は身近にあるものなのかもしれない。言わないだけで、どこの家庭でも実は軽いDVなんて普通に経験しているのかもしれない。聖人で博識で碩学の比叡山にいた、何世紀にもわたる功名を残している偉大な聖人、ですら妻を殴っているのだから、普通の夫が妻を殴らない理由なんて無いんじゃないか…と私は思ってしまった。私たち女性も、自分たちが絶対に男性より口喧嘩が強いという自覚があるにも関わらず、ついつい挑発をしてしまいがちで、男性の弱点を追窮する悪魔になる瞬間があるという罪を強く自覚すれば、暴力は回避できる可能性が高くなるという事を、どんなに優しい男性でも言い過ぎたら手を出すのが普通だと心得ておくほうが無難なのかもしれない。いうまでもなく、男性は無罪放免というワケではなく、女性が自分を自分で守れるため、自己防衛のために、である。
なんだか色んな男女がいて、色んな事情がある。
なんでこんな素晴らしい人が、あんな人と…?というカップルは時々いますけれども、男女って本当に複雑であやしくて不思議です。わかりません。私は今の夫と結婚する前に、熱海のお宮の像を見て「どう思う?」と男性が女性に奮う暴力について折に触れ質問している。夫に今日、なぜ愛し合っている男女は最終的にDVしちゃうんですかねみたいな事を言うと時々面白い意見が聞けたりします。そのうちいつか、私も老いて厚顔無恥の遣り手婆ァを気取って、無自覚に夫を傷つけて暴力を振るわれ「DVを受けてるのぉ…」とか周囲に泣きつく日がくるかもしれません。いや、そうならない事のほうがおかしいというか、私みたいなワガママで恥知らずで悪意の塊みたいな(笑)女は、DV受けやすいでしょう。いつか、殴られたら悲しいだろうな。と、未来の自分の悲惨な最後を考えると、とても悲しくなります。今はなんとか殴られてないけど、それも今だけでしょう。私ってやっぱり年とともに図々しく、言葉遣いも汚く、意地悪ですから。いつか夫も堪忍袋の緒が切れて、殴るでしょう。なんといっても親鸞様の妻ですら殴られてるんですから。私みたいな悪女が殴られないほうがオカシイのでは。ああ悲しいな。結婚って…。と思うんですけど、今のとこそうじゃないから結婚が奇跡的に続いていて、それはやっぱり夫が我慢しているからなのです。感謝してもしたりません。親鸞聖人よりも忍耐強い夫。
うまくいかないから、嫉妬する
理解不能な嫉妬心で攻撃されたら、喜ぶべきなのかもしれない。と思った。自分がDV受けてたら、受けてない女みたら確かに、八つ当たりしたくなるかもしれない。なぜあのママはキレてんだ。カルシウム不足か。と呑気な事を考えてた私は、まさか、DV受けてるからだとか、考えもつかなかった。人には闇に包まれた深い事情があって、やむにやまれず攻撃的になる事もあるのか。とか考える事ができるようになった。自分が悪いのか…あの人が怒るの自分に原因があるのか。自分が悪いんだ…と鬱々と思ってた心が、「DV受けてるらしい」という事きいて、台風一過の青空のように晴れ晴れとすがすがしく気持ちよい爽快な空の下にいる気分になった。人の不幸で納得した、というか。なんという事か。人の不幸で幸せになったなんて。なんか得心がいったという気持ちだった。あの人そんな不幸だったなんて、外見からは不幸そうに見えなかったけど、高飛車になる理由があったんだな~と、自責の念が薄くなって楽になれました。ある意味、DVをしてくれてありがとうとまではいかないけど、色々とそのママさんが異常に同性に他責的でも、それは仕方ないな。DV受けてたらな。と、DVがある事で無敵というか、何もかも許せる気がした。いっそ酷いDV受けてたら、今まで言われた嫌味は忘れて、同情する気がする。なんだか私って、変な感情の構造である。