Nicotto Town


かきくけこのブログ。


立花孝志氏が霞が関で襲われ

国民の為に働く政治家がナタで襲われるという、やるせないニュースがありました。


悪を憎んだ人が、刑務所に入る。
 犯人の三十代の男は、殺意をもって犯行に及んだという。動機は「政治家が議員を自殺においやってるからだ」みたいな事を言っているらしい。動機が、自分勝手な欲望じゃないんですよね。なんだか動悸だけ見て聞いただけなら、正義のヒーローみたいな…。


許さないといけないのではなく、許せない人の特徴がヤバイ。
 なぜ人は人を許さないといけないのか。怒りが頂点に達している時に「それでも許してあげるのよ」なんて言われても、焼石に水ですよね(笑)むしろ怒りが頂点に達している時に「でも許すのよ」なんて言うやつがうすら笑ってたりでもしてたら、むしろ怒りはさらに燃え上がり強く憎悪するようになるのでは。でも人間は、人間の罪を憎んで人を憎まずという考えでいないといけない、と言う。なぜ、本当に許せない事を平気でやってのける人間を野放しにし好き放題させないといけないのか…。そんな事こそ絶対に許せない…という考え方になるのは、社会人として生きてたら当然誰もが通過する、通過儀礼みたいな火の輪くぐりのようなものなのではないか。誰もが怒りを持っている。でも、それを正直にストレートに歯に衣着せずに「許せない、絶対に許せない」と行動に移しちゃう。そういう人のパターンというのだろうか。社会の悪を憎む事自体、なんて高潔で素晴らしい正義の人なんだろう。素晴らしいと思うのに、それこそ本当の理想的な大人だと思うのに、そういう崇高な思想の人が、「絶対にこの怨みはらさでいられよか」というこの怨憎深い悪意の泥沼に落ち込んでしまって、結局は、正義の心で「絶対許すな!」と罪を憎んだ人が、刑務所に入っちゃう。というこの、なんともなんとも、原因と結果のこのすさまじい矛盾というか…。なんで潔癖な人が犯罪者にならないといけないのか…というか。この社会で、どうして人が人を許さないといけないのか。許せない、という人というのは、犯罪者予備軍という特徴があるという事なのか。という事になるので、過激な正義感、過激な制裁を求める死刑を求めるという人間のヤバさというものを、浮彫にしてくれたのが、立花氏を襲った犯人であった。


許さないといけないのではなく、なぜ人は許さないといけないのか。許せない人間とは、いったいどういう人間なのか。最近のニュースが教えてくれる、大切な経験だと思いました。なぜ許さないといけないのか。許す事が大切じゃなく、許せない人間の心が、誰の人生を刑務所送りにするのか。それを教えてくれるニュースだと思った。正義感がありすぎる…というタイプの人のヤバさ。それがどういう事なのか。正義感は、誰の身を滅ぼすのか。すごく勉強になる事件だと、私は思いました。悪いことを悪いと思う。それ自体は本当によくできる人間の、凄く素晴らしいことだと思うのに、なぜあんな事になっちゃうのか。正義感が…問題なのか。あいつだけは絶対に許せない…と殺意を抱く。罪を憎む事自体は社会で生きる上で必要な能力のはずなのに、人は罪を憎んで、人は憎まずに生きなければならない。そうでなければ、生きられない。という事を教えてくれた、本当に涙無しに見られない悲しいニュースでした。社会で生きて欲しい人が、刑務所に入っていくなんて。犯人の男の人が自分の私利私欲のためにあんな事件を起こしたならいざしらず、周囲の仲間や大切な人を想っていた人だから事件を起こしたなら。そんな人が犯罪者になるなら。なんて悲しすぎるのだろうか。結局は私も、いつも周囲のおとなたちが言っていたように、「でも許さないといけないのよ。どんなに憎いことでも許さないと…」と、焼石に水どころか、火に油のようなそんなもしかしたらもっと殺傷能力が高くなっちゃう行動を促すような事を、口走ってしまうような大人に私もなっちゃいました。一体、最終的にそれは、誰の為なんだろうというような、「でも、許さないといけないのよ」という、社会で生きるうえでの大切な考え方。

許せない、というタイプの人は八つ当たりしないのか。
 社会の悪そうな人をやっつける。それ自体なんだか正義のヒーローみたいで凄く変な話だけど人々に感謝されそうな耳聞こえのいい話に思える。
 でも、この現実の世界で、立花氏は本当に悪人だったのか?本当に犯人が言うような悪人なのか?悪人であったとしても、誰もが見方によっては悪人に見える事だってあるんじゃないか、結局は、一番てっとり早く八つ当たりできたのが、政治家だったのではないか…。そういう罪も、浮彫になってくる。悪い奴を許せない。そんな考え方って素敵なのに、その考え方は結局、誰も幸せにしない。悪を憎んだ人すら幸せにしない。なんの解決にもならない。もう、どうでもいいやと捨て鉢になって八つ当たりしたかった、みたいな感情すら見え始めてくる。許せない許せないという感情なんて、誰もが持っているようなものだと思う。でもそれを免罪符に殺害してもいいとはいうルールが日本には無いのだ。それに、許せないから一番自分が傷つけやすかった政治家を狙うというのは、卑怯なやり方ともいえる。ストレス解消に政治家をナタで切ったのではという言い方もできる。

罪を許さないといけないのではなく、許せない、と公言してはばからない人間の、その潜在的にある弱い人間のせいにしてしまうという恐ろしい罪業が、隠れているんではないかと思う。許さないといけないのではなく、許せないという感情はどこまでも清らかであるにもかかわらず、許せないから死刑という考え方をする人間にある、自分が加害できる者に対する徹底した加害意識というもの。そんな人間のいやしい自分の弱いものいじめを奨励して肯定してしまおうとする、そんなおぞましい考え方が、「あの悪だけは絶対に許せない」と公言するタイプの人間の、本当のヤバさじゃないかと…。だって、色んな考え方の違いがあるのが人間なんだから。誰もがあの反対勢力の政治家が…という考え方になるのが普通なのに、それを許せないと思い続けるというのは。いくら「よく言った」とか周りが褒めたりしたとしても、本当に許せないとおもい続ける事の心の裏に、自分が加害できる可能性のある人間を加害しても許されようとする、卑怯な人間らしい他責感情というか、裏返して考えると、立花氏を攻撃する人間が、なんだか一瞬だけ見れば高潔な人にも思えないのに、よくよくよく人間の心理を深堀したら、単純に非武装の人間を暴力で排除しようとした、弱いものいじめの人間の典型的な幼稚な行動に帰結したといえる。許さないといけないのではなく、「許せない人間」という種類の人間は、とても社会人が、社会で受け入れられないような思考の核を持っている、ともいえる。許せないのはわかるだけに、なんとも残念すぎる。でも、この厳しい残酷で過酷なこの現実を生きるうえで、人間は「許す」という考えを持つというスキルが必要なんじゃないのだろうか。丁度、生きるうえでパソコンの技能が必要みたいに、人間は「許す考え」というスキル、もその時その時に応じて、必要なのだろう。そんな事を教えてくれる事件だった。




Copyright © 2025 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.