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初水天宮


こんばんは!5日(金)は、北日本では午後を中心に雪や雨が降るでしょう。

日本海側では雷を伴った雪や雨の降る所もありそうです。
東日本から西日本の日本海側は次第に雲が広がり、
北陸では夜になると所々で雨が降る見込みです。
その他の地域は概ね晴れるでしょう。

【2024年の抱負は?】

A、当たり前のことを当たり前に出来るようにです。

【初水天宮】 はつすいてんぐう

☆正月に初めて水天宮様にお参り出来る日が5日で合ったことに因み、
 「初水天宮」といわれています。

<概要>

〇初水天宮

1月1日~1月3日に出向くことが多い「初詣」とは似て異なる行事です。

初水天宮とは、1月5日に東京都か福岡県どちらかの水天宮に参拝することです。

@東京都にある水天宮のの歴史

 江戸時代まで遡(さかのぼ)ります。
 福岡県久留米市の水天宮を信仰していた久留米藩主である
 第9代の有馬頼徳(ありまよりのり)公が参勤交代の間、
 江戸でも参拝出来るようにと分霊を祀りましたのが始まりです。

 《有馬頼徳》公

 1797年ー1844年 江戸時代後期の大名です。

 寛政9年6月22日生まれで、有馬頼貴(よりたか)公のお孫様です。
 父である有馬頼端(よりなお)公が早世した為、
 文化9年祖父の後を継ぎ、筑後久留米藩主有馬家9代となります。

 *筑後・・・現:福岡県

 藩の財政困窮の為、米切手(こめきって)が不渡りとなり、
 その責任を幕府に訴えられました。

 *米切手・・・江戸時代諸藩の蔵屋敷が蔵米の売却にあたり、 
        発行した払い米の保管証書です。
        保管証書は、正米(しょうまい)切手や
        米札(べいさつ)ともいいます。

 又、大庄屋層に依存した財政改革で、天保3年亀王組一揆が起きました。

 ≪財政改革≫

  就任早々の幕府による関東河川の手伝い普請で、
  領民に臨時税1192貫を課したり、
  文化13年(1816年)には経費を3割縮減した緊縮財政や、
  家中から米献納を命じたりして、財政改革に取り組みました。

  一方で、「月船(つきふね)」「水鴎(すいおう)」といいました号を持ち、
  自らの趣味に没頭しました。

  文政2年(1819年)から久留米城内に柳原御鷹場を作り造り始め、
  さらに能楽を何度も開く等して、財政をさらに悪化させました。

  この為・・・

  文政6年(1823年)には江戸からの帰国中に旅費不足に陥り、
  急遽国許の大庄屋中から5000両を送付させる事態に陥ります。

  翌文政7年(1824年)から、
  役所整理等の経費削減による財政改革を開始しました。

  同年から文政11年(1828年)まで、
  洪水又は不作に見舞われるという不運も重なりました。

  しかも、こうした中で文政8年(1825年)に柳原の庭園が完成した際に、
  「柳原八景詩歌」を編纂させています。

  文政10年(1827年)からは御用金を取り立て、
  文政11年には上米の増額と万事3か月の省略を命ずる等しましたが、
  借金はさらに膨れ上がります。

  天保2年(1831年)には人別銀17446両を徴収しました。
  
  こうした残酷な取り立てをきっかけに、
  天保3年(1832年)からは亀王組による
  国中を巻き込む一揆が起こる有り様でした。

  同年には場内に焼物窯を開きまして、
  柳原焼と称しまして写し物を製作させる等、
  趣味への出費が減ることはありませんでした。

  『柳原焼(やなぎはらやき)』

   この柳原園の作業場「陶工軒(とうこうけん)」で、
   天保3年に始めました。

   その開窯にあたりまして不白流3代川上宗寿さんを西下させまして、
   茶陶の指導にあたらせています。

   柳原焼は有馬頼徳公の好みを反映しまして、そのほとんどが茶陶です。
   特に朝鮮の井戸、熊川、ととや、伊羅保、三島等、
   又、瀬戸や唐津の写しも多く各地より陶工や陶土を
   求めたといわれています。

   宗寿さんは約半年程、久留米に滞在します。
   その間の紀行文によりますと殿様の鷹狩りの判をしたり、
   山伏の修験道場英彦山(ひこさん)への登山を申し出しまして、
   許されたりして、久留米の生活を楽しんだそうです。

   柳原焼は天保10年の財政難を憂う家老衆の要請もありまして、
   能舞台、御鷹場等を整理して間もない頃、この窯も閉ざされましたが、
   近年茶陶としての評価は高まりまして、
   中でも月船公の自作の茶碗は珍重されまして、
   地元の杉、高良杉の箱に納まりました共箱や眉山の箱になるものが
   喜ばれています。

  天保2年(1831年)に佐少将に遷任されます。

  晩年の天保9年(1838年)には、
  大洪水で大被害を受けたのにもかかわらず、
  諸国巡見使の接待に1万両を費やしまして、
  さらなる財政悪化の為、家臣へ増上米を命じました。

  翌年の天保10年(1839年)8月には江戸城西の丸の普請を命じられ、
  10月にはとうとう柳原鷹場を取り壊しました。

  天保15年(1844年)4月23日に江戸で死去しました。  
  家督は四男の頼永(よりなが)公が継ぎました。

 江戸有馬家上屋敷内の水天宮に参拝出来ますのは、
 毎月5日に限られていました。

 1月5日が「初水天宮」と呼ばれるようになりましたのは、
 新年を迎えてから初めて神様に挨拶する日だった為です。

@安産・子授けの神様が祀られている

 ・天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ) 様

 ・安徳天皇(あんとくてんのう)

 ・建礼門院(けんれいもんいん) 様

 ・二位の尼(にいのあま) 様

 天御中主大神 様は日本の神々の祖といわれておりまして、
 安産・子授けにもご利益が期待出来ます。
 
 ある妊婦が参拝に訪れたことを知らせる「銀の緒」のお下がりを
 腹帯にしましたところ、想像以上に安産だったようです。

 ★鈴の緒

  鈴の緒には晒(さら)しが使用されていたころから、
  水天宮では「御子守帯(みすずおび)と呼ばれる腹帯を巻きまして、
  安産祈願をします。

 ☆水天宮の祭神

  安徳天皇とその母であります建礼門院 様、祖母の二位の尼 様も、
  水天宮の祭神です。

 ★水の神・子供の守護神

  僅か8歳で壇ノ浦に身投げしたといわれる安徳天皇は、
  水の神・子供の守護神として知られています。

問題 縁日に参拝しまして神仏と縁を結ぶことで、
   より多くの???が期待出来るといわれています。

   ???に入ります言葉を教えてください。

1、御利益(ごりやく)

2、善知識(ぜんちしき)

3、新天地(しんてんち)

ヒント・・・〇???の意味

      尊敬語で、神仏を信じることによりまして、
      受ける恵を敬っていう言葉です。

      転じまして・・・

      金銭や物質がもたらす幸運を意味するようになりました。

      @正解の言葉の漢字について

       稲を表す「のぎへん」と農具の鋤(すき)の形の「りっとう」と
       合わせました字で、鋤で田や畑を掘り起こすという
       意味を表します。

〇水天宮

住所  :東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目4-1

電話番号:03-3666-7195

お分かりの方は数字もしくは???に入ります言葉をよろしくお願いします。
  



 






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