Nicotto Town


ガラクタ煎兵衛かく語りき


時雨の章




空蝉橋にて
(爪の汚い女)

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 最終の山手線内回りで大塚駅に帰り着く。
疲れている。
北口から出て左の方向を辿る。角海老、松屋、数多の
海鮮居酒屋の横を抜いて歩く。
途中薄暗い、こんな時間なら書き入れ時な業種の店舗が
淡い照明を灯す通りを抜いて歩く。

 そして、人の喧騒の音が、やがて車両の走行音に入れ替わっていき始めると、
疲れた自分はやっと空蝉橋通りまでたどり着いたことに少し安堵する。
ここまで来たらアパートまで半分。たが帰ってもそこに食料は無い。
どこかでほろ酔いの胃袋を宥める必要がある。
空蝉橋通りを渡る前に、自分は情けない眼差しでこれまで歩いてきた方向を
振り返る。
ごく最近に食事したことのある店舗は多かったが、
なぜか満足させてくれるものに出逢えていない。

 信号が青になり通りを重たい歩みで渡る。長い横断歩道の半分まで来た時に、
ふっと視界の左側に、一つの照明入りの看板が消え入りそうな輝きで写り込む。
『あれ? あんな店あったっけ?』
初めて看板の存在を認識した無防備な存在で立ち尽くした油断を、
青信号の残り時間が守ってくれる。
いつの間にか吸い込まれるように通りを渡り切り、その店の前に導かれていく。

古びた看板の色合いは、なぜか幼い時に経験した数多くの<お店>の看板の記憶と同期している。
時代が違っている。でも今、現にそれは目の前にある。一見ありふれた食堂のよう。
看板は「えどいち」という文字を、深夜の大塚北口のはずれの、
空蝉橋の端で仄かに輝かせている。


『今夜はここにしようか』
店の安っぽいスライドドアを開く。
途端に食欲を刺激する香りと湿気と異質感が襲ってくる。
狭い店。それ故にダイレクトな感覚が押し寄せてくる。
メニューを探し、壁横に貼ってある品書きを認識した瞬間、
そこの壁際の椅子に座っている一人の女客に気付かざるをを得ない。
背筋に鉛筆程度の柱が突然屹立する。『こいつ何?』
半分はこの店に入ったことを後悔する。
半分はこの場面を切り抜ける方法を模索する。


 たとえ自分が疲れていても、腹が減っていても、
この女が食べている器の上に添えている女の指の先を見たならば、
それとは到底、共存できない自らの感覚にしがみつくしかない。


 店主が云った。「何になさいますか?」
湿気を含んだ空気がグルグルと廻っている。後悔も模索も間に合わない。
とにかく腹を納めて、この場を出たい。決断しなければならない。
メニューの貼ってある壁と、逆の、換気扇と壁付扇風機のある壁と、
正面右の小型テレビと、正面左のひょっとしたら非常口への出口を、
半分我を失って、それでも首を回して見渡している。


「生姜焼きが美味しいわよ」不意に女が云う。
「お嫌いでなければ」


 汚い爪の女の表情を初めてまともに見る。それを逆に見返してくる。
真剣で、次の瞬間には眼差しを逸らす。虚空を見つめるように、舞い逸らす。


 突然、展開が見えてくる。
女はシートを少し近づけ、店主は最初からテレビを見ている。
「生姜焼きをお願い」。そして店主は重い腰を揚げて作り始める。
出来上がった豚生姜焼き定食をビールと一緒に流し込む。
腹を納め、少し安心した自分に、女は囁く。
「私の店は通りを渡ったすぐなの」


「えどいち」のスライドドアを開けると、季節外れの時雨が二人を待っている。
女は着飾った爪の指で傘を自分に預ける。ついさっき渡ったばかりの空蝉橋通りを再び戻る。

渡りしなに自分は何故か、この夜もう一度振り返る。
霞む雨の向こうにもう古びた看板は見えない。
雨で見えないのか、そもそも最初から無かったのか、もう分からなくなっている。
生姜臭い息をはきながら、仄暗い通りの照明に時折りチラチラ反射する汚い爪が視野をかすめる。

 若いドアボーイが目に入る。
「ここよ。入って」
”しかたない” 財布から5000円札を出し示して、ドアボーイの胸ポケットに優しく差し込む。
「これで新しい手袋を買ってくれないか」
わけがわからない表情を浮かべ、戸惑いながらも
彼は身に着けていた仕事用の白いナイロン製の手袋を譲ってくれる。

 素手によって開かれたドアの中に入りながら、その手袋を無作法に女に渡す。
「これで頼む」
傘をドア右の傘置きに返しながら、女の反応を見定める。

 普段なら一人で明日の予定を反芻する時間帯に、間もなく睡眠に入るべき時間帯に、
女が躊躇いながらも自らの汚い爪を隠そうと(爪先の突起のため苦労しながら)
ナイロン製の白い手袋をなんとかはめようとしている姿を見ている。


 急速に酔いが醒める。女の右手の人差し指の先端のジュエリーパーツがナイロン布を突き破る。
ドアボーイはドアを閉める作業を怠ったまま、店内を覗き込んでいる。
もう一度財布から5000円札を出して、「傘代だ!」と叫びながら、傘置きから傘を抜いて、
ボーイに一言。「今度はお店に」渡しながら、開いたままのドアから飛び出す。


 傘を差しながら、空蝉橋通りを渡らない帰路を選ぶ。宮仲公園通りに達するまで走る。
『しばらくは折戸通りで帰るか』

それ以来、「えどいち」には行ってない。





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