放埓の章
- カテゴリ:日記
- 2022/02/26 00:57:39
団子坂にて
(坂での眩暈)
家を出た。大学を放棄した。親から脱出した。夢しか無かった。
生涯自らの好物と目指す、生物学の講義は全て授かった。
動物形態学とか、ああ、今となると正確な名称は思い出せないが、
植物、動物、ウイルス、系統樹、細胞生理学、代謝、遺伝学、
生態系(エコロジー)とか、
4年制の内、2年間で専門の単位を全部取得してしまった(普通逆なんだが)。
逆に、基礎的な(たとえば英語とか、教育学とか、第二外国語とか、
発達心理学とか)の、
単位にはまったく興味を覚えず、我慢できず、これじゃない感満載で、
徒に講義が行われている時間帯には、近くのゲームセンターで時を過ごした。
さらに、わくわくしていた。20代前半の男子である。何でもできる。
何でも任せなさい。わーたーしーにに出来ないことは何も無い。
北海道で初めてのコミケを主催した。
全道の20以上の漫研を呼び寄せて、
北大生協での北海道初のマーケットを成功させた。
ラジオで3回は私の肉声が道内に及んだ。
そうしているうちに、4年の期限が迫っていた。
そのままでは卒業できない。時間稼ぎに、教員採用試験に応募してしまった。
私に出来ないことは無い、多分、そうだったのだろう。
そう思いたかったのだろう。
そして、試験に受かってしまった。その為に一人の教職志願者に
不採用を与えてしまった。
私の生涯を通して、最大の悔恨の瞬間である。
私は闇に沈もう。もう誰とも笑顔では話せない。
全てをリセットし、千駄木駅の近くのアパートに住まいを構えた。
初めての独居は四畳半で、月1万2000円だった。
住所としては西日暮里だが、近くには谷中銀座もあり、
かつ、山手線には歩いて数分だ。
家を出て、貧相な宝物を携えて、本籍を誤魔化し、本名を誤魔化し、
不動産会社の(真っ当な)手続きを経て、一つの部屋を獲得した。
(そうそう、当時から私は文章を書いていて、たとえばSFなら五河流麗、
ホラーなら城啓之、本格推理物なら瀬高英二、純文っぽかったら水輝源人、
絵を描くなら紀伊津美野、と名のっていて、最初の不動産会社には、瀬高の
ハンコを用意していた)
貧相な宝物は既にJRのシステムを利用していたので、
翌日、無事に質素な四畳半へ上野駅から着いた。
二日間で私の拠点は札幌から西日暮里へと移り変わった。
ここで汗を流すタイミング。
西日暮里から南への階段を降り、谷中銀座の端っこを抜けると
とても大事な道に当たる。不忍通りだ。
その真正面に銭湯があった。その名は失念した。ごめんなさい。
すべての汗や垢やしがらみや、ひょっとしたら愛情さえ流し拭い去りたい、
そんなヒョロッとした、髪を肩まで伸ばし、青白く、指先は綺麗で、
今、自分の人生は初めて始まったのだと勘違いしている、
一人の男性が、めでたく入湯した。
解放感。自由感。一人で何でも出来る感。
その高揚感は別のページでお話しましょ。
汗や垢やしがらみなんかを拭い去った私は何も怖くはない。
かかってきなよ、私は自ら家を捨てたんだ。
なんでも来いよ。一つも怖くはない。
それでもおめえは怖い顔をしてるね、いいだろう、掛ってこい。
長生きしたければ、自分には関わるな。
ある夕方の風呂上り、長い髪を乾かすために、深い考えもなく、
不忍通りを南へと、根津方向へと初めての歩を進めた。
程なく右側に結構傾斜のきつい坂道が突然現れた。
標識ですぐにその坂の名がわかった。
家に置いてきた書籍類の中に確か一冊だけあったはずだ。
「D坂の殺人事件」
そうか、明智小五郎が初めて登場したのがこの坂か。
話のあらすじは忘れているが、そもそも古本屋とか、蕎麦屋とか、
えらい古臭いシチュエーションというか、
過去の奇天烈な小説の類いと思っている。
しばらくその団子坂下に佇んでいたが、気付くと髪は乾いていた。
夕食のおかずを買いに谷中銀座まで戻る時間だ。
その日はそれで終わった。美味しいものを買えた。高揚感は続いていた。
さあ、あとは明日だ。
明日は死ぬまで続く。
明日しかなかった。
数日後、ふと、再び銭湯の帰りに団子坂下まで行ってみた。
髪は生乾きだったので、癖が付くのが少し気になったが、
オレンジ色のイヤーパッドで、
ウォークマンに入れたウルトラヴォックスのカセットを聴きながら歩いた。
シンセベースとジョン・フォックスの咆哮で頭を一杯にしながら、
坂の下に差し掛かった時、
目の前を明智小五郎が不忍から坂の上に向かって走り抜けていった。
何やら叫んでいるようだが、こっちはジョン・フォックスの声で聴きとれない。
いや、待て、何で明智が目の前を疾っているんだ?彼は大正か昭和初期の頃の、
それも創作の登場人物だろう?現実に、というか、今どうして私の眼前に現れるんだ?
まだ舗装のされていない坂を土煙をあげながら、下駄履きの明智小五郎が疾り去っていく。
周りの空気が違う。湿度が違う。匂いが違う。全部違う!
彼の声を聴こうとイヤーパッドを外そうとしたが、手が空を切った。
そもそも生乾きの髪に、始めからそんなものは付いてなかった。
私の中途半端な長髪のフォルムが、寸時前に眼前を横切った明智のフォルムに、
追い付こうとして、少しで追い付けそうで、やがて追い付いて、
あと少しで合体しそうになって、
そして、
昏倒した。
目が覚めると父母が見守っていた。月1万2000円の安下宿で、
3人の親子が再会していた。