Nicotto Town


ガラクタ煎兵衛かく語りき


1984 in Tokio


「じゃあグリーンにしようかな」と、グリーンが云った。
「それなら僕はピンクだ」と、私が云った。

 いよいよバンドを結成するにあたって、各自の色(color)を決めちゃおうと、
私が云いだした提案をグリーンが呑んでくれた。なんとかレンジャーとか、
でんぱ組inc.、に先立つこと20年も前の発想だ(あったらごめん)。

 翌々日、私たちはお茶の水の(以前から読んでくださっている方々には御馴
染みの)坂道に赴き、グリーンは素敵な緑色のギターを買い、更なる数日後、
私は下倉楽器でハードケース入りの juno-106 を購入した。

 以前からグリーンに、『ベースを弾くために生まれた男だ』と聞かされていた
男がいて、ベーシストはそれで決まったと思っていた。たしか東京都島嶼部出身
だったはずだ。彼と私は逢えたのだろうか。よく覚えていない。なにせ30何年
前の話だ。

 グリーンと同郷のイチロー君とは最初から波長があった。本土復帰から10年
過ぎた頃だったけど、同じ【がっつきさ】は共有できたと思う。彼をバンドの
ヴォーカリストとして迎えた最初の夜は松屋だったw 

 夜の新宿だったと思う。食事後に練習スタジオを探しに行き、偶然靖国通り
をちょっと折れたところにStrawberry studioを発見した。まさかである。
10cc fanなら食いつきそうな名称である。
そんなに高くなかった。ワンアワー1500円+機材使用分だったかな。

 その時は予約で済まし、それからカラオケに行ったw
各自のソングタイムである。結局3人(多分)で行ったのだけれど、他の2人が何を
歌ったかは全く覚えていない。だが、私が歌った曲はしっかり覚えている。
アルバムとしてリリースされた1年目くらいの「スプリンクラー」by山下達郎
である。無謀である。kyである(勿論当時はそんな言,,,)。でも、その時も、今も、
今でさえも大好きなこの曲を、よくぞ人前で歌う機会を(今となっては)持ち得たかというのは実は現在の糧になっているというヲチなのです。

 その後、私の不祥事により計画は頓挫しました。グリーンには詫びる言葉も
ありません。


 そして私は住心地のいいTokioから、住心地の悪いTokioへと移動しました。
それはまた別の話となるでしょうw








 ただ、一回だったかな、私も、もともとギターを弾くので、彼がリード、
私がスリーフィンガーで、2台のギターで『22歳の別れ』を披露する
機会があって、それなりに周りにいた聴衆に感動を与えられた実感を受け
取った気がしていること。このことに初めて云います。


 奈良くん、ありがとう。
 グリーン、ありがとう。そして、すみませんでした。

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2020/02/26 02:26
何が、、、
楽器が出来てバンドができる人は、いいなぁ〜と常々思います

周りんたくさんいたので、よくスアジオに同伴したり、ライブハウスに同伴したり

ステージに飛び入りしたり、してました

山下達郎懐かしいですねー

今でも色あせない、、

吉田美奈子とか、

ヨウツベで聞いたrしてますうよお〜




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